【PUBLICITY 1944】2013年9月17日(火)
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【オフノート】東郷和彦36
〈台形史観のおさらい その2〉
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nemo enim patriam,quia magna est,amat,sed quia sua.
何人もその祖国を、それが大なるゆえに愛するのではない。
それが自分の祖国なるゆえに愛するのである。
セネカ
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【物語を支える文明】
――この「台形史観」は、今もアジアの中で通用するのかどう
か。ぼくは『歴史と外交』を読んで考え込まされました。
東郷 まず、前提からお話しさせてください。
――お願いします。
東郷 過去をみることによって、本当に未来に通用する視点を
出す。また、自国の内側に突っ込むことによって、本当に外側
に対して通用する視点を出していく。この二つの方法はお互い
に相通ずるアプローチだと思っています。そういう意味で『歴
史と外交』で説明した台形史観については、外務省にいた時か
ら思っていまして、大学で日本外交を教え始めた時も、基本的
にはこの台形史観で説明しており、私のなかでは一貫していま
す。
その台形史観では、1945年に戦争に敗れ、叩き落とされた
ところで「ゼロ」になったわけです。そして、日本が昇ってい
く。いまどう昇り降りしているかを考える際には、台形の間で
日本がどう動いたのかを常に参照するわけです。
外交戦略という観点からいえば、戦後の日本の本質的な戦略問
題は、太平洋戦争で日本を叩き潰したアメリカと、今度は、戦
争ではない、良好な関係をつくるということですね。それから、
太平洋戦争が始まる前に、日本がその素地をつくっていった「
大陸における進出」の問題です。戦争の結果、極めて難しい状
況をつくってしまった韓国、中国との和解、アジアへの再回帰
、これが日本の地政学的位置から出てくる避けては通れない課
題です。地政学的にみても、歴史的プロセスから見ても、避け
て通れない。
【註】
▼東郷さんが要約する、日本の基本的な外交戦略も『歴史と外
交』からおさらいしておこう。
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明治以降の日本外交の第一の課題は、ユーラシア大陸の東端に
張り付いた島国として大陸との間にいかなる安全保障関係を築
くかにあり、それが朝鮮半島、南満州、北満州、中国大陸へと
拡大していった日本の「利益線」の発想となったが、その背後
には常に帝政ロシア・ソ連邦の脅威にいかに対処するかという
冷徹な外交戦略があった。
日本外交の第二の課題は、海洋国家として、まず七つの海に君
臨した英国との関係を、次に太平洋の彼方から圧倒的な力をも
って登場してきた米国との関係を、いかに調整するかであった。
にもかかわらず、結局、日本は米国との戦争に突入し、「太平
洋戦争」の敗北という形で明治以降の発展の歴史にひとまず幕
が下ろされた。
冷戦終了後の日本外交の地政学的、戦略的課題は、まさにこの
戦前の主要課題であった北東アジアと太平洋を舞台として繰り
広げられることになった。
一つは、太平洋戦争の敗戦という苦渋の経験を経て結ばれた米
国との同盟関係を、冷戦後にこの国が一人勝ちの勢いで世界に
君臨し始める中でいかに調整し、発展強化させるかであった。
もう一つは、東アジア大陸で台頭する中国といかにして建設
的・調和的な関係を結び、この国が地域の平和と発展のために
建設的な役割を果たすような「参加」を求めるかということ。
さらに、朝鮮半島問題の安定化のために、日本がいかなる具体
的な施策をとるかについても、考えていく必要があった。
『歴史と外交』233-234頁
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東郷 私にとっては、台形史観に基づく歴史観が、現在の日本
外交を規定する関係になっています。本当に深い外交、本当に
スジの通った外交、本当に深い政治を創り出すためには、表面
的なその場しのぎを繰り返すのではなく、もう一度、歴史を省
みて、内部に戻って、筋道を導き出す、というのが私の発想だ
と思っていますが、そのうえで、台形史観がテラブル(=ひど
い、まずい)か、というご質問ですよね。
私は、今の時点では依然として、ある程度、台形史観を立てて
いるわけです。薩長史観として批判されているのも知っていま
すが。
私が『歴史と外交』で書いた、中国、韓国との関係においては
台形史観が成り立たない、という意味は、韓国の視点に立った
場合、成り立たないだろう、という話なのです。また、中国共
産党の視点に立つ話と成り立たない。
それは、一種の歴史の相対化という意味で非常に健全なことだ
と思うのです。でも、韓国の視点に立って成り立たないという
ことは、日本の視点に立って成り立たないということではない
のですよ。
それぞれの国家は、それぞれのナラティブを持っているわけで
す。神話、物語ですね。
──物語。
東郷 そう、物語。物語を持っていることは全然おかしなこと
ではないと思います。日本の物語と韓国の物語が一致しないと
いうことに、私は全然違和感は覚えない。それは「どこかで一
致させないと」という問題は出てくるかも知れないけれども、
だからこそ、まず少なくとも今、北東アジアの情勢をみれば、
「日本と韓国の物語は違うんだ」ということを「知る」ことは
、決定的に重要ですよね。そのこと自体を知らない人が日本に
は多いのですから。
──今のお話は、このインタビューで以前話題になった「独善
が最も悪い」という点と繋がりますね。
東郷 そうですね。共同の歴史教科書づくりの取り組みは非常
にいいと思うんです。一部には、日本のものの見方と韓国のも
のの見方が同じになるなんてことはありえないんだから、ああ
いうものを深くやるのは意味がないという意見はあります。だ
けど私は、最終的に絶対に同じものにならないのかといえば、
それはまたちょっと違うんじゃないかと思う。もちろん当面は、
まったくギャップは大きすぎるし、日本の国家としての見方と
韓国の国家としての見方が同じにはならない、ということもよ
くよくわかる。だから、どこが違うのか、なぜ違うのか、とい
うことをお互いに比べ合って知る、ということがとても大事だ
と思います。
──やはりここでも「帝国主義」という言葉がいちばんのキー
ポイントになると思いました。『歴史と外交』で、東郷さんは
靖国神社の中につくるべき歴史博物館に言及されたくだりがあ
りますが、とくにその「第二の部屋」について、以下の三つの
視点を提示されており、ぼくは感銘を受けました。
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第二の部屋は、時代の理念にしたがった行動の枠外で、現実に
とられた行動についてである。
アジアの戦闘で、とくに中国との戦闘で、大陸に入ったわが兵
士が、実際にどのような戦闘をおこなったかについてである。
勇猛果敢に戦った多くの士気高い兵士もいたが、南京事件(死
んだ人の数に関する議論はあるが)を含め、わが兵士の証言の
なかに、戦争の狂気がいかに相手国の民衆に苛烈な形で跳ね返
ったかについての、生々しい記録がある。この事実を知ること
は、昭和の戦争にいたる原点として、
1:日露戦争における日本の勝利を絶賛した孫文が、やがて抗
日の先鋒となったのはなぜか。
2:同じく韓国で、日露戦争の日本の勝利を、わがことのよう
に喜んだ安重根(アン・ジュングン)がその五年後に伊藤博文
を暗殺したのはなぜか。
3:日露戦争時にはロシア兵捕虜に対する国際法に則った人道
的な取り扱いが絶賛されながら、太平洋戦争における捕虜の取
り扱いについては、いまだに元連合国兵士の根深い怨恨がある
のはなぜか。
そういう問題をさらに深く考えさせることになる。
『歴史と外交』51-52頁
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――この東郷さんの視点には、明らかに「自省」の働きがあり、
ここに道義的な力、バネが発生する。また、「歴史博物館建設
という課題は、まずもって、中国や韓国等の諸外国に向けられ
たものではない。日本自身の課題であり、私たちの父や祖父が
なにをおこない、なにを渇望し、他者に対してなにをなしてき
たかという民族の記憶を、正確に保存するためのものなのであ
る」(53頁)とも記しておられる。
東郷 これは、外務省を辞めたから書けた、という内容ではあ
りません。私にとって、現役時代に発言してもなんらおかしく
ない内容です。これまでお話ししておわかりのように、私は日
本の太平洋戦争に至る道程について、「基本的には仕方なかっ
たのではないか」という考えに与しているわけです。にもかか
わらず、アジアとの関係を考えた時に、自省せざるを得ない。
日露戦争の勝利は本当に多くのオポチュニティーを開いていた。
孫文と安重根が象徴的なのですよ。アジアにおける改革──当
時は革命と呼んだ──反植民地主義の革命の拠点は東京にあっ
たんです、日露戦争までは。
ところが、日露戦争で勝って、日本は帝国列強と同じになって、
イギリス帝国主義に反対するインド、清の統治に反対する孫文
などなど、彼らの活動拠点や東京にあった事務所を、次々と政
府の命令でクローズしていった。日露戦争に勝った後、排除し
ていったわけです。
なぜかというと、イギリス帝国と日本帝国は同盟国になって、
たとえばインドの独立運動はイギリス帝国の利益にならない。
だから日英同盟の結果として、そういうものを日本はクローズ
せざるをえなくなった。時代の赴くところ、致し方なかったと
も言える。ではその時、日本にどういうオプションがあったの
か、と考えると、よくわからないけれども、同時に、「嗚呼、
残念だ!」と思わざるを得ない。
──非常に大事なお話だと思います。
【註】
▼東郷さんの祖父にあたる東郷茂徳さんの『時代の一面』は、
このアジアとの関係の観点からも読み直すに値する本である。
そもそも茂徳さんは、この本執筆の目的は「文明史的考察」に
あると書いている。
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本書の目的は予の自伝に非ず、また自分の行動を弁解せんとす
るのでもなければ、日本政府のとった政策を弁解せんとするの
でもなくして、自分が見た時代の動きを記述するを本旨とし、
自己が見聞しかつ活動せるところに就き、主として文明史的考
察を行わんとするのである。
『時代の一面』21頁
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▼この目的観を念頭に置いて読んでみると、幾つかの重要なポ
イントが浮かび上がる。
一例を挙げれば、茂徳さんはイギリスの帝国主義政策に触れ、
「国家の性格に二重性があることが認められた」(97頁)と
書いている。
ジュネーブ軍縮会議の頓挫については、「同会議に於ける各国
の利己的態度を見て、国際社会がかかる人道的平和事業に成功
するほどの道義的基礎を欠いているのを痛感した次第であった
」(110頁)
また、「予の根本思想」と題する節には、「人類の科学的、物
質的進歩は最近顕著なるものがあるが、精神的進歩はこれに伴
わない。されば社会的変革の如きもその速度を按じ、社会の道
徳性の向上と歩調を一にするに非ざれば該変革も成功せざるか
、または一時成功せるが如く見えても逆転することが多い」(
143頁)
アメリカの禁酒法頓挫については、
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理想的には善美の立法も実施困難なるものは遂に立法の威厳を
害し、国民の遵法の念を阻害することが甚大であると云うこと
であった。
更に反面より云えば如何に善美なる理想に基く社会的機構と雖
も、一国の道徳的水準に適合せずして実行不可能なる場合には、
かえって社会的弊害が多いので、社会的機構の改革は一般人の
道徳の向上に比例するを要することで、ここに立法上の限度が
あると云うことである。
更に云い換えれば、立法手段により社会の改善を計るべきでな
く、立法は道徳の進歩を前提とし、少なくともこれに伴うべし
と云うのである。
『時代の一面』87頁
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▼茂徳さんは中国観についても、「支那は日本なくとも存立し
得るが、日本は支那なくては存立し得ないことの感じであった
(一つは日本の生存圏思想、一つは共存共栄思想となるべし)
」(27頁)と考えていた。これは松本重治が『上海時代』の
なかで同様の意見を書いている。
――東郷さんには文明史的な考察を旺盛に発信していただきた
いと思います。
東郷 あの時代に、なにかもう少しでも、アジアのためになる
ことをできなかったのか。いつも思います。1945年へ向か
う道程のなかで、大東亜共栄圏の理念が戻ってくるわけですね。
大東亜共栄圏は悪の代名詞として叩き込まれてきた。これは日
教組的な教育が無批判に入っていったところだと思います。私
はいま必ずしも悪の代名詞だとは思いません。そこには「亜細
亜主義」への回帰という問題があり、少なくとも重光葵の世界
に発信する日本のアジア主義、東西融和といった考え方があっ
た。あの時点であのようなことを言い出すくらいなら、なぜ日
露戦争の直後、もっとましなことができなかったのか。そう考
えざるをえません。
【註】
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日本にはかつて、哲学と国家目標、外交政策が結び付いていた
時期があった。それは太平洋戦争直前の頃だった。すなわち、
京都学派という哲学、国体の本義という国家目標、そして大東
亜共栄圏という外交政策である。残念ながら、これらは全て敗
戦と共に解体されてしまった。
安倍政権に求められていること、それは、世界に開かれた、日
本発の新アジア思想を打ち出すことである。
「月刊日本」2013年3月号、17頁
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(つづく)
(読者登録数)
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