【PUBLICITY 1936】2013年9月8日(日)
【オフノート】東郷和彦 28
第4章:黒い瞳の国~East Asia
offnote@mail.goo.ne.jp
▼東郷和彦さんの「オフノート」は、ぼくのせいで随分完結さ
せるのが延びてしまった。東郷さんにお詫びしたい。
そしてその間、領土問題をめぐっていろいろなことが起き、と
ても大変なことになっている。あらためて話をうかがい、歴史
観をめぐる話も含めてまとめた。
このなかには、日本外交の真ん中を歩いてきた人だからこそ訴
えうる主張があるが、それは現在の日本政府の考えを補強する
ものもあれば、日本政府の主張と相容れないものもある。その
どれもが「メモリーの息づいたロジック」であるとぼくは感じ
た。
【オフノート】東郷和彦
第4章:黒い瞳の国~East Asia
28〈戦争と道義心の不足〉
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今回ノ戦争ガ斯クモ悲惨ナ結果ニ立到リマシタコトハ固ヨリ私
共軍人ガ無力デアツタ結果デアリマスガ其ノ他熟ラ考ヘマスト
最モ根本的ナ原因ハ此ノ無理ナ戦争ヲ行ハネバナラナクシタ満
州事変以来ノ大キナ過誤ニ在ルト考ヘマス。
ソレハ何カト申シマスト道義心ノ不足デアルト申スコトガ出来
ルト存ジマス。
米内光政大臣の奉答文草稿(文書自体には表題、署名が無いが、
天皇から、戦後の施策について御下問を受ける立場で、草稿が
高松宮の手元に残されていることから、まず米内の奉答文の草
稿と見て誤りは無いと思われる)
『[証言録] 海軍反省会』468-9頁
戸高一成編/PHP研究所/2009年8月19日第1刷
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──もう少し「公」についてうかがいたいのですが、近代日本
の「自画像」の絵解きをするためには、天皇に触れざるを得ま
せん。ここでは一点だけ申し上げておきたいのですが、『時代
の一面』に載っていた和歌のうち、次の二首が印象に残りまし
た。
我にもがく近代の人なればこそ我を捨つることのいみじからんに
すめろぎに凡てを捧げまつらむと定めし心今も揺がず
東郷 二番目の歌の心が、当時の日本人、少なくとも日本指導
部の一致した感覚だったと思います。竹山さんが以前言ってお
られた佐藤電報ですが、無条件降伏をめぐる佐藤・東郷電報に
は、お互いに、ある種の感情的なリアクションがあるでしょう。
──ありますね。
東郷 佐藤と東郷の、若干の立場の違い、価値観の重点の置き
方の違い、パーソナリティーの違いがぶつかった部分があると
思うんだけれども、しかし、佐藤大使も、天皇に対する根本的
なところは、祖父と、同じですね。
──そうですね。「すめろぎに凡てを捧げまつらむ」は、当時
の指導者層が共有していた心情であることがよくわかります。
彼らは皇戦(すめらみいくさ)に挺身した。ぼくはこの二首が、
近代の「我」「自我意識」というものをガッチリつかんだ歌だ
と感じました。
人間は誰も「我」を捨てきることはできませんが、国家の公僕
として生きるとき、国益のために「我」を捨てなければならな
い局面が生じますね。
東郷 そうです。あります。
――それは会社や組織でも当てはまるかも知れませんが、とも
かく「我」を捨てるか否か問われたときに、茂徳さんは、「す
めろぎに~」の心があってこそ、近代的な我を捨てることがで
きる、事実、私はそうしたのだ、と訴えられたのかも知れませ
ん。
東郷 そこが、日本人の日本人たるゆえんになってくる。この
問題は、当時の彼らが意識していた「日本のアイデンティティ
ー」について考えるときに、避けて通れませんね。
──避けられませんね。大急ぎで「近代国家」をつくった19
世紀後半から1945年まで、これ一本でやって来たわけです
ね、エスタブリッシュメントの人々は。
だからポツダム宣言を突きつけられたとき、「無条件降伏を拒
否して一つだけ条件をつける=皇室の安泰」という大前提に、
誰もが納得していた。それこそが降伏の前提であり、誰も疑義
を挟まなかった。しかし、世代が変わると……
東郷 そこまでは、重みがなくなるでしょう。私はある程度は
理解できるけれども、竹山さんだと、理解しがたい世界になっ
てくるということは、ありませんか。
──「皇戦(すめらみいくさ)」というくらいですから、「あ
あ、そういうことだったんだ」ということはわかりますが。
東郷 世代が変わってくることによって、自分の問題として、
昔の人が感じていたことと、同じことを感ずることはできない。
けれども、「昔の人は、こういうふうに感じていたんだ」とい
うことを、自分の問題として、理解し、感じることガできるか、
そこに、大きな問題があるように、思います。時代が変わるこ
とによって、過去への想像力がまったくなくなり、何もわから
なくなる、これは、問題だと思うのです。
──東郷さんへのこのインタビューのテーマの一つが、194
5以降の「公」の欠落ですが、もう一つ、「1945年に向か
う」歴史も、大きなテーマです。第3章で紹介した茂徳さんの
苦闘と表裏一体で、軍の暴走がある。
これは茂徳さんの長歌(オフノート20に引用)に言い尽くさ
れていると思いますが、「東京の統帥部」を根源とする「武官
外交」の弊害(『時代の一面』193頁)や、いわゆる「統帥
権の独立」、これらは、とても「公」のためとは言えませんね。
東郷 言えません。
──象徴的な話としては、開戦時の東条英機首相ですら、真珠
湾攻撃の詳細を知らなかった。
東郷 そうですね。
――ちょっと信じられない話です。
■註
▼以下の『時代の一面』(中公文庫版)の引用の、5段落目に
注目である。
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日米交渉中に行われて同交渉を爆破した南部仏印進駐も軍の画
策に基くのであるが、更に七月二日および九月六日の決定によ
り、戦争準備の促進かつ完整に努むることとなって以来、曩(
さき)に近衛手記より引用した通り軍部は戦勝の自信を得るこ
ととなり、交渉打切り、即時開戦を主張して重大事を押切ろう
とした。
殊に米国の石油禁輸が実施せられて以来、日本海軍は死命を制
せられることとなったので焦燥甚だしく、交渉成立の見込みな
しとせば速かに開戦すべしとの気勢が、漸次強大となって戦争
開始を激成することとなった。
蓋し彼ら軍部に於ては、全般的に交渉案件の緩和には極力反対
して、交渉成立の可能性を無にしたからである。
当時統帥部の専断は軍艦大和および武蔵の噸(トン)数は勿論、
日本の保有する軍艦の総噸数につき軍部以外の閣僚は知るとこ
ろがなかったこと、真珠湾攻撃計画も右と同様であったことな
どより見て、推測に難からぬだろうと思う。
巣鴨に於て東条大将から聞いたことであるが、真珠湾攻撃に向
かった日本の空母機動部隊が早くも十一月十日に単冠湾に集合
し、かつ同月二十六日朝既に出航した事実は、東京軍事裁判に
於て始めて知ったとのことである。統帥部が陸相たり首相たる
彼にさえ秘密にしたのであるから他は推して知るべしである。
東郷茂徳『時代の一面』298-299頁
中公文庫、1989年7月10日発行
初出は1952年、改造社
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※もっとも、この類の話は山ほどある。そもそも、昭和天皇は
どうも「ノモンハン事件」(昭和14年)の詳細を知らされて
いなかったようだ。昭和15年あたりには既に陸軍の参謀本部
は、満足な情報を天皇のもとに届けていなかった。天皇に対し
てですらそうなのだから、後は推して知るべしである。
──統帥部という組織がどういう存在だったのかを端的にあら
わす話ですが、これが公(おおやけ)のためなのか。単なる暴
走じゃないですか。1945年へ向かっていく過程でも、公が
欠落していったと思うのです。(東郷さん、うなずく)
──さらに『時代の一面』には、戦争が終わった後の、国を再
生する構想について、少し書いてあります。
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無論今後の日本は絶対に戦争を避くべきである、そのためには
憲法を改正して統帥権の独立なる観念を許容しないことを明ら
かにし、かつ国際協力、平和的発展の思想を普及せしめ軍人の
跋扈を抑えることなどがその結論の重なるものであった。
454頁
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──ぼくは、この指摘は極めて重いと思います。米内大臣の「
道義心を失くしたがゆえに敗れた」という思いとも深く響き合
う。この観点からの、茂徳さんによる「文明史的考察」が著さ
れなかったことが残念です。体系だった著作が残っていれば、
歴史的評価も変わっていたでしょう。
(つづく)
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