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安倍総理の歴史観には、小泉総理よりも明確な「日本の名誉を
守る」という視点があった。しかしながら、それが一方的で単
純な政策の形成としてあらわれれば、中国、韓国、ひいては米
国とのあいだで、不毛・無用・消耗でしかない歴史戦争を引き
起こす危険性があった。
その結果は、おおむね予想がついた。一九四五年に軍事的にす
べてを失った経験の反復である。歴史問題をめぐる新たな対中
対米同時戦争によって、こんどはすべてを文化的に失う危険性
があった。
東郷和彦『歴史と外交』15頁
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【12~情報戦における敗北の事例】
【註】
▼今号はほとんどすべて引用のみである。
2007年、アメリカの下院議会で日本への謝罪要求の決議案
が採択された。外交や交渉という、人間の営みについて考える
うえで、この典型的な事例から学びうることは多いが、東郷さ
んの意見は、『歴史と外交』にほぼ言い尽くされている。当該
箇所を引用しよう。
まず、決議案採択の前に、アメリカで行われたシンポジウムに
て。
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私は、安倍総理の立場は従来の政府の立場を薄めたものではな
いという点と、米議会決議は有益な結果を招くことはないと思
う点については、最後まで主張しつづけた。
慰安婦セッションが終わってコーヒー・ブレイクになってから
、議論に参加したひとりが私を脇に呼んで、こう言った。
「トーゴーさん、あなたは納得できないかもしれない。しかし
、いまのアメリカ社会における、性(ジェンダー)の問題は、
過去十年、二十年前とはまったくちがった問題になっている。
婦人の尊厳と権利を踏みにじることについては、過去のことで
あれ、現在のことであれ、少しでもこれを正当化しようとした
ら、文字どおり社会から総反撃を受けることになる。
少し前までは、外国に駐留する米軍兵士が、現地の売春宿に行
くことを咎めることはなかったのに、いまは、司令官がきつく
これを禁止する時代になっている。
要するに、慰安婦の問題を考えるとき、多くのアメリカ人は、
いま現在、自分の娘がそういう立場に立たされたらどうかとい
うことを本能的に考える。
ましてや、それが、少しでも『甘言によって』つまり『だまさ
れて』連れてこられ、そのあと、実際に拒否することができな
かったというのであれば、あとは、もう聞く耳もたずに、ひど
い話だということになる。
あなたが言われるように、そういう甘言でもって強制された人
は全員ではなかったかもしれないし、軍の本旨としてはそうい
う事態を抑制したかったとしても、それが徹底して厳密に抑止
できなかった以上、結果責任はまぬがれないということになる。
自分は、これは、非歴史的(ahistorical)すなわち、六十年
前の視点でものを見ているのではなく、現在の視点でものを見
た議論と言ってもよいと思っている。『それはひどいではない
か』と言っても、それがいまのアメリカをはじめとする世界の
圧倒的な大勢である。
あなたが、安倍総理や河野談話の立場を説明し、それを守ろう
とすることには、それなりの敬意を払うが、日本全体が、いま
私が述べたアメリカ社会の現状を知ったうえで、議論している
のだろうか」
『歴史と外交』92-93頁
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▼この話に続けて、東郷さんは「情報戦は勝たねばならない」
と題された小節を書いている。
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(この話をきいて)三月の欧米論調にあった日本非難の不気味
さの原因として、納得できるものがあった。なにはともあれ、
そういう情報を日本に伝えたいと思った。会議の処理が一段落
したところで、日本の雑誌に寄稿をしなければと思った。
だが、私の報告は間に合わなかった。
六月十五日、東海岸の友人から連絡があり、十四日の『ワシン
トン・ポスト』紙に日本の政治家とオピニオン.リーダーの、
慰安婦問題に関して「強制連行はなかった」とする意見広告が
掲載されたという。これによって、しばらく表面に出ていなか
った下院外交委員会の決議案がまた急浮上するだろうと深刻な
声で告げた。(中略)
日本の報道や雑誌記事のなかに、慰安婦問題が、アメリカでこ
のように大きな問題になっているのは、在米の中国や韓国のロ
ビー活動が原因であるという指摘が目立つ。貴重な情報だと思
う。
しかし、そうであればこそ、その活動に乗せられないような、
アメリカ全体を動かす効果的なメッセージを出さねばならない
。六月十四日のメッセージは、そういう効果をはたしただろう
か。(中略)
かくて、七月三十日、下院本会議は、歴史上はじめて、慰安婦
問題に対する公式謝罪要求を内容とする決議案を採択した。こ
の動きは、オランダ(十一月八日)、カナダ(十一月二十八日
)、EU(十二月二十三日)の各議会における決議案採択へと
発展した。
言葉もない。なんとも残念な事態である。
慰安婦に対する対日批判は、これからも、続くであろう。「過
去を反省しない国」「女性の尊厳を踏みにじる日本」というイ
メージは、そのたびに少しずつ強まるであろう。
六月十四日の広告のなかで述べられた"事実"については、引用
されている当時の軍のメモランダム(女性の拉致を禁止する趣
旨)、朝鮮における新聞記事(官憲が女性を誘拐する悪徳業者
を取り締まっているもの)など個別に正しいものがあっても、
広告の主目的が、慰安婦制度自体の正当性を訴えようとしてい
ると受けとめられるなら、世界がこれを受け容れることは、ま
ず予見されない。
欧米、韓国、中国はそれぞれの立場から対日批判を強め、努力
すればするほど、日本は国際的に孤立する。六十年前に軍事的
に叩きのめされた事態が、こんどは、文化的な次元で起きかね
ないように見えるのである。
■玉砕に近い事態
いざ児等よ 戦ふ勿れ
戦はば 勝つべきものぞ ゆめな忘れそ
祖父東郷茂徳が、A級戦犯として東京裁判で勾留されていたと
きに詠んだ歌の一首である。
太平洋戦争は、日本が、明治以来蓄積してきたことの多くを失
う、完膚なきまでの負け戦となった。
茂徳は、巣鴨の獄中にあってどのような気持ちでこの歌を詠ん
だのか。
外務省で勤務した三十四年間も、退官のあとも、この疑問はい
つも、私の胸から去らなかった。
日米間の戦争が避けがたいという状況が生まれたとき、彼我の
国力において圧倒的な差のある米国に対し、日本は、より成算
の高い戦いかたはなかったおんか。
この点について、岡崎久彦氏の著作『重光・東郷とその時代』
のなかの、「『敗戦の教訓』--日本を破滅的な惨禍から救う
唯一の戦い方があった」(第十四章)に、たいへん興味深い分
析がある。
岡崎氏は、日本が、アメリカの国力とその国民の性向を把握し
、それに即応した対応をとっていたならば、おのずと違った戦
いかたがあった、「真の敗因は情報の軽視にあるといえる」と
指摘する。
一九三九年九月、ヒトラーがポーランドに侵攻し欧州大戦が始
まった。それから二年たっても、米国世論は欧州戦争への参加
を認めていなかった。それほどに、米国の孤立主義と厭戦思想
は強かった。
ハル・ノートに直面したとき、真珠湾への攻撃による緒戦の勝
利をめざすのではなく、交渉の経緯を全面的に米国世論に対し
て明らかにし、日本の道理と戦争回避意志を明らかにする闘い
を挑んでいたならば、場合によっては戦争は回避されたかもし
れないし、そういう過程の上で、十分の予告をもって戦争に入
っていれば、米国は、日本をあいてとする戦争遂行と、早期和
平を要求する米国世論の二つを相手とする両面作戦を強いられ
、日本にとってはるかに有利なかたちで終戦が実現できたので
はないかというのである。
しかるに、真珠湾攻撃は、かりに、電報解読の不手際からの通
報遅延という逸脱がなかったとしても、「日本がいきなり先に
叩いた」という意味で戦争への米国の意志を一挙に駆り立てた
。「真珠湾攻撃という戦術的大成功は、戦略的大失敗と断ぜざ
るをえない」と岡崎氏が言うゆえんである。
戦後六十年、日本は、この歴史の教訓に学び、二度と負けない
かたちの闘いを、新しい国づくりのなかで進めてきたと思う。
その目的は、軍事で失った戦いに、経済・文化・道徳という新
しい分野で勝利し、世界に尊敬される国として再生することに
あった。
私は、おおむね、日本は、そういう方向に進んできたと考えて
いる。しかし、今回の慰安婦問題をめぐる対応は、日本が、情
報戦で、きわめて深刻な立ち遅れに至っているかもしれないこ
とを、示している。
相手国、世界の心理が把握できていないがゆえに、みずから正
しいと信ずる真理をそのままのかたちでぶつける。結果として
、玉砕に近い事態が起きる。情報戦において決定的に敗北して
いるからとしか、言いようがない。
『歴史と外交』94-99頁
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──東郷さんのようにこの事態を深刻にとらえている人が、思
ったよりも少ないところにも、問題の深刻さがあるのかも知れ
ません。しかし、あの意見広告に岡崎久彦さんの名前もあった
のが残念ですね。
東郷 はい。残念です。
【註】
▼意見広告に賛同者として掲載された人名は以下の通り。
▼自由民主党
赤池誠章、稲田朋美、江藤 拓、大塚高司、岡部英明、小川友
一、 鍵田忠兵衛、亀岡偉民、木原 稔、木挽 司、坂井学、島
村宜伸、杉田元司、鈴木馨祐、薗浦健太郎、平 将明、戸井田
徹、土井 亨、土井真樹、西本勝子、林潤、古川禎久、松本文
明、松本洋平、武藤容治、愛知和男、山本朋広、渡部 篤、中
川義雄
▼民主党
松木謙公、笠 浩史、牧 義夫、吉田 泉、河村たかし、石関貴
志、泉 健太、神風英男、田村憲司、鷲尾英一郎、北神圭朗、
松原 仁、松下新平
▼無所属
西村眞悟、平沼赳夫
▼学者/評論家/ジャーナリスト
福田 逸、遠藤浩一、宮崎正弘、東中野修道、荒木和博、島田
洋一、西岡 力、藤岡信勝、加瀬英明、西尾幹二、富岡幸一郎
、岡崎久彦、青山繁晴、茂木弘道
▼歴史事実委員会
屋山太郎、櫻井よしこ、花岡信昭、すぎやまこういち、西村幸
佑
(つづく)