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disce ut semper victurus,vive ut cras moriturus.
汝が永久に生くるかのように学べ。
汝が明日死するかのように生きよ。
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【15~「弓」を引く力、その源泉】
──「51対49」の話は、『秘録』のみならず、英語で出版
された本(『Japan's Foreign Policy, 1945-2003: The Quest
For A Proactive Policy
』)の結論でも紹介されており、この2冊の最大の共通点にな
っているわけですが、どのような意図があったのでしょう。
東郷 「51対49」の話は、私が外務省を辞めた時の、いわ
ば心象風景でした。
あの時、二冊の本を書くことを決めていました。英語で日本外
交史の本を書く。そして、日本語で日ロ外交の本を書く。その
両方の結論部分を、「51対49」の話にしたわけです。
──そういえば、『秘録』のなかには、「51対49」を、仄
かに匂わせる記述があります。ロシア大使のパノフさんとの関
係がそうだったのでしょうか(秘録351-353頁)。
東郷 そう言えると思います。
また、私がここでご紹介申し上げたいのは、祖父が日米開戦を
何としても阻止するために、とった行動です。五百旗頭真先生
が、発掘してくださいました。
──これですね。
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(1941年)十月十六日、行き詰まった近衛は内閣を投げ出
した。そして十八日、東条英機が陸軍大臣・内務大臣兼任で首
相となり、十二月一日、開戦の決定が行われたのである。しか
しこの間、十月下旬に信じられないようなことが起こった。
■駐日米大使へのリーク
現在、グルーの日記がハーバード大学のホートン図書館に保存
されている。その十月二十五日の項には、最高機密であったは
ずの御前会議の模様を、グルーが知ったことが記されている。
(中略)
御前会議から五十日を経た十月二十五日時点での駐日米大使へ
のリークが、だれによって、どのような経緯からなされたのか。
グルーは外交官として秘密に心をくだき、その人に迷惑をかけ
ないようにしている。私はアメリカでグルーの家族にも秘書で
あった人にも会って聞いてみたが、彼はだれにも告げていない
。また日記にもその名を伏せている。
日米関係が戦争と平和の間のとがった稜線をきわどく歩む当時
の状況において、日本政府の奥深くでなされた会議の最高機密
を、ほかならぬアメリカ大使にもらすことは、国家反逆罪に相
当する。忠実な公僕や、節度ある親米家にできることではない。
第一に日本政府内の高度な情報に接し、第二に常軌を逸した大
胆な行動をとる蛮勇に恵まれ、第三にグルーとの間に格別に親
密な関係を持つという三条件を満たしうる人物でなければなら
ない。
「グルー文書」に収められている当時のグルーの面会リストや
日誌から見て、牧野伸顕を通じて高度な情報に接しうる立場に
ある、吉田茂ではないかとも思われたが、さらなる調査の結果
、樺山愛輔が東郷茂徳外相の意を受けてグルー大使にコンタク
トしたことが明らかとなった。
東郷外相は公的なアメリカ大使との会見とは別に、グルーと親
交のある樺山愛輔を大使への個人的密使としたのである。樺山
を通して、公式には口にできない政府と宮中の内情まで打ち明
け、日米戦争回避努力への大使の協力を求めたのである。
氷の塊のように非妥協的なアメリカ政府の態度を何とか融解さ
せようとの東郷外相の必死の努力の一コマだったわけである。
五百旗頭真『日米戦争と戦後日本』36-39頁
講談社学術文庫、2005年5月10日第1刷
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──……これ、国家反逆罪ですね。
東郷 そうですね。
──しかし、そのとき茂徳さんは、明らかに「国境線」の上に
立っておられた。「境界線」を跨いでいます。ぼくはそういう
人に、そういうことにならざるをえない人生を生きた人に、き
わめて強い興味を持ちます。
東郷 たしかに、罪に問われてもしかたない。私にとってもま
ったく新鮮な驚きでした。しかし、そこまでしてでも、戦争を
止めたかった。私には、祖父の必死の思いが、理解できます。
──『秘録』もそうでしたが、『歴史と外交』を読んで特にそ
う思ったのですが、この本には、内省というか、「内に問う力
」を感じます。それは、幾つかの書評にもあらわれていると思
います。
東郷 過分な評価をしていただき、ありがとうございます。
──内に問う力については、後ほど『歴史と外交』の具体的内
容を通してうかがおうと思っていますが、ここでは、問う力の
「源」について質問したい。
ぼくが言っている内に問う力というものは、閉鎖的な、内向き
の力ではないです。外交ですから、外に打って出るわけで、そ
の、打って出る力と、内に問う力とは、裏表ですね。51対4
9の視点でいえば、他者を慮る力に対応するのが、内に問う力
です。
たとえてみれば、弓矢のようなもので、弓を引っ張るのが内に
問う力。それが強ければ強いほど、相手に刺さる矢の力が強い
し、射程距離が長くなりますね。
(東郷さん、肯く)
──その弓を引く力は、どこからわきあがるのか。東郷さんの
本のなかでは、人間の内面の力を、数値化不能な表現で書かれ
た箇所が幾つかあります。『秘録』でいえば、「気合い」(2
23頁)とか、「率直な人間同士のぶつかり合いから生ずる信
頼関係」(224頁)とか、「あうんの呼吸」(229頁)と
か。
東郷 (苦笑いしながら)いやー、それは私の文章表現の稚拙
さのゆえですね。
──いや、そんなことはないですよ。そういう分野の力は数値
化できないんですよ。ただし、仕事においては、なんとしても
「かたちにする」という、強烈な執念としてあらわれるのだと
思います。
問う力を養う気風、風土があると思うんですね。もちろん、宗
教や文化など、力の源はいろいろあるでしょうが、東郷さんに
とって、問う力を培われたきっかけは何でしょう。外務省、家
庭、学校などのなかで、原点になったのは何処でしょうか。
東郷 うーん(しばらく考える)。
一つ挙げろと言われれば、それは、イノチュウだね。そこに戻
りますね。
──んー!(唸りながら)イノチュウですか。
東郷 そう、イノチュウです。
【註】
▼はい、説明します。
このインタビューのしばらく前、少しお酒の入った席で、「東
郷さんの恩師にあたる人って、おられるんですか」とたずねる
機会があった。
東郷さんは「それは、イノチュウという人がいたんです」と即
答した。
──イノチュウ? なんですかそれ。あだ名ですか。
東郷 そう、あだ名です。イノウエ、チュウ。
──井上チュウのチュウは、どんな漢字ですか。
東郷 忠実の忠。私の大学の恩師です。哲学の先生だった。
──へー、哲学の。
東郷 ええ、まさに頭をハンマーで殴られた感じでした。駒場
の「教養」(東大教養学部。1・2年時)の授業で、すごい衝
撃でした。
──どう、すごかったんですか。
東郷 それは、なんというか、すごかったんですよ(笑)。
──(笑)すごかったんですね。
東郷 そうなんです。しかし、その内容を一言で要約するなら
ば、「自分の周囲のすべての事象を、もう一度、一から考え直
せ、問い直せ、『何故?』って」。そういうことを教わりまし
た。この、根源まで問わねばならないという姿勢が、私が外務
省で仕事をするうえでの原点になったんです。
──そうだったんですか。そのイノチュウ先生とは、その後、
どんな交流をされたんですか。
東郷 いや、それが、卒業以来、一度もお会いしていません。
──えー!
東郷 実は、個人的にお話したことは一度もないんです。
──(再び)えー!
東郷 大学の授業を受けただけなんです。一番前の席に座って
、一生懸命ノートをとっていましたが。そのノートや、試験の
時のメモを、今もとってありますよ。
──それで、そんなに影響を。じゃあ当然、住所もわからない
わけですね?
東郷 ええ。
──というか、もう亡くなられたのでは。
東郷 そうかも知れませんねえ。
──そんな。もったいない。しかし、大学の授業って、そんな
に大きな影響を受けるものなんですね。
東郷 ご著作を読んで学ぶよりも、直接、謦咳に接しえたこと
が決定的だったのでしょうね。
▼ということで、調べてみました、イノチュウさんのその後。
人物データベースによると、なんと都内にご健在とのこと。
電話してみました。「東郷君、たしかにぼくの授業をとってま
したね」。「えっ、覚えていらっしゃるんですか」。「ええ、
覚えていますよ」。
縁は異な物、味な物、その日のうちにイノチュウさんと東郷さ
んと双方に連絡をとり、後日、東郷さんとともに都バスに揺ら
れ、イノチュウさんの自宅へ赴いた。
(つづく)