humanas actiones non ridere,non lugere,
neque detestari,sed intelligere.
人間の行動を嘲らず、悲しまず、憎みもせず、
されどそれを解せんとす。
スピノザ
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──領土交渉の苦闘とともに、外務省内でとられた東郷さんの
振る舞いに、ぼくは関心を持ちました。
当時の省内での「力学」は、当然、鈴木さんへの傾斜と非難中
傷との間で動いていたのだと思いますが、実は、交渉の内容と
あまり直接に結びつけて考えると、現実とのズレが出てくるの
かも知れない、とも感じました。
東郷 私も、おっしゃるとおりだと思いますよ。
──そのうえで、省内での動きを、どう説明されますか。
東郷 省内では、交渉の本筋についての議論は、きちんと通っ
ていたわけです。総理にあげるメモなども、ちゃんと決済をと
ってやっていたわけですし、私は言うべきと思ったことは全部
言って、実際に外務省の方針は、私が献策した方向で決まって
いきました。
ただ、そのなかで、省内の一部に、しかも、政策決定に無関係
ではない部分で、いろいろな動きが出た、ということでしょう
。それが、交渉が緊迫する二〇〇〇年秋から感ぜられるように
なり、二〇〇一年春、私の欧州局長退任のころから更に顕在化
し、二〇〇二年春、私の追い落としにあたっては、大きな役割
を果たした、と、私には見えます。
その時点では、「組織の論理」が、働いたということでしょう
。つまり、「鈴木を切る」という、組織の論理がかたまった、
あとは、その奔流がすべてを飲み込んでいったということでし
ょう。
──あの渦中で、周りから嫉妬の感情が働いたのではないか、
と感じられたことはありますか。
東郷 それが、欧亜局長をしていた間の渦中では、そういうふ
うに感じたことは、ないんですよ。
──少しも、ですか?
東郷 そうですね。ロシアの仕事をしていた間は、そういう発
想に欠けていました。二〇〇二年になってオランダからもどっ
てきてからの大騒動になってからは、奔流に抵抗するのに精一
杯で、そういうところまで考えている余裕もなかった。結局、
全部終わって、振り返って見て、そういうこともあったのかな
と考えるようになったのだと思います。
【註】
▼「ちょっと失礼」。着信音の鳴る携帯電話を手に東郷さんが
席を立った時、紅茶を入れてくださっている晁子(ともこ)夫
人にたずねた。
「佐藤優さんと初めて会われた時、どんな印象を持たれました
か」
夫人は、感慨深そうに、「主人よりも仕事をする人に、初めて
会いました」と答えた。
「主人は、全ての力を仕事に注ぎ込む人ですから、ちょっと仕
事しすぎなんじゃないかと思うところもあったのですが、佐藤
さんと1、2回お会いして、ああ、これほどまでに仕事に打ち
込む方がおられるのか。主人よりも、はるかにすごい、と本当
に感心したんですよ」
へぇー、とぼくが感心していると、東郷さんが戻ってきた。話
の内容を察知しながら、「何の話ですか? 単純な比較はよく
ありませんねえ」と笑い、椅子に座る。
「いやー、人は人、自分は自分、と思って前へ進まないとね。
彼のパワーと比較されたら、こりゃ、まいっちゃうよね」
苦笑いしながら、東郷さんは言った。「そうね」と、夫人もニ
コニコしている。
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モスクワに着任してすぐに、当時、在モスクワ日本大使館で書
記官を務めていた佐藤優氏がブリーフのため、私を訪ねて来た
。ソ連課長時代から佐藤氏の優れた情報にはしばしば接してい
たが、一緒に仕事をするのは初めてのことであった。
まず、最初にマスターすべきロシア各界要人百五十名のリスト
を渡され、「出来るだけ早く知り合いになられることをお勧め
します。ただし、基本的にはロシア人は嫉妬深いのでこれぞと
言う人物には一対一で会われる事です。これからは朝食二回、
昼二回、夜二回と思ってください」と告げられた。
私も出来るだけ大勢のロシア人と知り合い、ネットワークを広
げようという意気込みに燃えていたが、さすがにこれには驚い
た。だが、よくよく考えてみれば、確かに二年ばかりの赴任期
間に、新生ロシアにおいて新しい人脈を作り上げるためには、
並大抵な努力ではすまないだろうと、納得したのを覚えている。
秘録195-196頁
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▼秘録には、バッシングの風雨の中、日本を離れる際、佐藤優
さんに別れを告げる場面がある。
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言うまでもないことながら、私にとって退官はまったく予期せ
ぬ事態だった。自分なりに方向付けをしたとはいえ、心の内側
は、絶望と怒りの入り交じった、何とも形容できない状態にな
っていた。
しかし、「黙って去る」と覚悟を決めた以上、新たな風波を起
こすことは問題外だった。『南洲翁遺訓』や『言志録』を噛み
締めながら、私は、ズタズタになった神経を癒し、新たな出発
の途を探すための場所を必死に求めた。
状況は日々、悪くなる一方だった。鈴木宗男衆議院議員をめぐ
る騒動は収まる気配を見せず、同氏の議員としての様々な活動
分野へと“疑惑”が拡大し、「鈴木宗男事件」という様相を呈
するにいたっていた。
外務省をめぐる鈴木氏の“疑惑”に関連しては、それまで、私
と佐藤優主任分析官の名前が盛んに取り沙汰されていたが、私
の退官は、新聞、テレビ、週刊誌など様々なメディアを通して
「鈴木派」に対する攻撃に拍車をかけることになった。報道合
戦は日々熾烈さを増し、自宅への張り込みは恒常化し、家族に
までマスコミの尾行がつく有様だった。
メディアの包囲網の中で世間からの攻撃に家族までが晒された
のは、見るに忍びなかった。しかし、私自身、どこか、日本以
外の場所に身を置いて、もう一回静かに自分を見つめ直す以外
に、自らを立て直す術は見あたらなかった。(中略)
五月の連休の間、都内のホテルに籠もって残務処理を行った後
、五月六日、一路欧州へと旅だった。
成田空港から佐藤氏に電話をかけ、「これから欧州に出るつも
りだ」と伝えた。
九〇年代の後半から、日ロ間の多くの重要案件について一緒に
仕事をしてきた佐藤氏とは、春以来、激変する情勢について何
回か話す機会があった。お互いに「いっそ日本をでたら」とい
うような話も何回かした。しかし、明確に日本を離れる決意を
つたえたのは、この時が初めてだった。
一瞬の沈黙があった後、佐藤氏は、「それが一番良いでしょう
」と言った。佐藤氏なりに私の置かれている状況を、理解して
くれたようだった。その後、お互いに連絡をとりあう約束をし
、私は、機上の人となった。
秘録36-37頁
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──佐藤優さんの解説に、次のようにありますが、ご自身では
どう考えておられますか。
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二〇〇二年に鈴木宗男衆議院議員に対するバッシングが起こり
、私がインテリジェンス部門から外交秘密を遮断された外交史
料館に異動になり、東郷氏がオランダ大使を免官になったとき
に、ある外務省の同僚から、「東郷さんも佐藤君も、仕事にの
めりこみすぎた。それだからこういうことになってしまった。
北方領土を取り返すなどという難題は、政治家の課題で、我々
は官僚としての分をわきまえ、本気で取り組んだらいけないん
だ」と言われたが、現在の外務省文化からすれば、確かにこの
同僚が言う通りなのだろう。
しかし、東郷氏にとっては、そのような計算は、おそらく考え
たこともなければ、脳裏にもうかばなかったのだと思う。そう
いう東郷氏の、祖父を外務大臣、父を駐米大使に持つ「外務省
サラブレッド」の純粋さ、厳しく言えば、自己の規準で他者を
測る、つまり周囲のサラリーマン外務官僚が東郷氏のような基
準で国益のために邁進することができないという現実への配慮
の足りなさが災いを招いた。
それが結局、一部外務官僚に付け入るスキを与え、想定外の誹
謗中傷の嵐の中で東郷氏は当惑してしまい、身動きがとれず、
外務省内部の“敵”の思惑通りに事態が進捗していったという
のが真相と思う。
秘録416頁
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東郷 佐藤氏の解説は、当たっている面と当たっていない面と
があると思うんですけどね。
私は、自分ではそんなに強権的な上司ではなかったと思ってい
るんですよ。その人なりに一生懸命やってくれればいい。ほと
んどの場合、それ以上の要求は、してこなかった。
逆にいうと、省内でそれほど高く評価されていない人でも、最
後まで一緒に仕事をするのが、上司としての私の責任だと思っ
ていました。
ただ、一つの信条はありました。私たちは役人だから、とにか
く2年か3年で動くわけですね。
──そうですね。
東郷 新たな仕事を始める時に、自分がもらう所掌事務という
ものがあるわけです。それは、小さかろうと、大きかろうと、
次官だって誰だって、責任範囲が定められるという意味では、
みんな同じなんですね。最初にその仕事に就いた時に、自分の
“パイ”は何か、ということです。
そして、全員が心がけるべきことは、その職務を自分が去る時
に、パイを少しでも大きくして後任者に渡す、と。どう大きく
するかという方法は、場所によってまったく違うけれども。そ
れが、私が自分自身に果たしてきた課題だし、それは他の人に
も期待していました。
けれども、それができないからといって、たとえば人事で外す
とか、仕事から外すとか、叱りとばすとか、そういうことをし
た記憶はないんですけれども、例外が一つだけあって、その例
外が、対ロ関係だった。
対ロシア関係だけに関しては、しかも、本当に限られた時でし
たけれど、「どうしても許せない」と思ったことがありました。
(つづく)