2009年03月28日

東郷和彦03/「声」が通らない

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duobus litigantibus tertius gaudet.

二人が相争う時、第三者は悦ぶ。
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──当時、野中広務さんの発言や、鈴木宗男さんと末次一郎さ
んの対立も生じてしまいました。

東郷 そうです。

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プーチン大統領をむかえる準備が着々と進行する中で、その後
、この交渉がたどることとなった運命を予兆するような変化が
日本の国内に現れ始めた。大交渉の本格的なスタートを目前に
して、日本国内が割れ始めたのである。

(二〇〇〇年)七月二十七日、野中広務自民党幹事長が講演会
で、日ロ平和交渉にふれ、「一つの前提を解決しなければ、(
平和)友好条約なんてありえないんだという考え方をとらない
」という趣旨の発言をした。

真意の把握が難しい発言であったが、私は、とにかく野中幹事
長に直接聞くことが最善と考え、幹事長室を短時間訪問した。
幹事長は、質問に答えて、領土問題の解決は平和条約によって
行うことと、東京宣言を基礎に交渉をすすめていくことは間違
いないとの二点を確認するとともに、「(停滞している交渉に
)風穴をあけようとした」との趣旨を話した。

そのあと事態は表面的には沈静化した。しかし、国内一部オピ
ニオンリーダーはこの発言をとらえ、「交渉が誤った方向に行
っている」という危機感を強めたのだった。

さらに、八月八日もう一つの「事件」がおきた。

この日、第二十六回日ロ友好議員連盟通常総会が行われ、三塚
博新会長の下で新体制の発足を決めることとなったが、そこで
末次一郎安全保障問題研究会代表が基調講演を行った。その際
、質疑応答の部分で、この会合に後半から出席した鈴木宗男衆
議院議員と末次代表との間で日ロ平和条約交渉の進め方につい
ての公開論争となったという話が、間もなく私のところにも伝
わってきた。

私が聞いたところでは、交渉の具体論というよりも、交渉にお
いて原理原則が大事(末次代表)なのか、相手をふまえた柔軟
性が大事(鈴木氏)なのかという論争であり、その限りにおい
て、議論の内容自体私には「どちらも大事」ということで了解
しあえるように思えるものだった。

しかしながら、この時以降、両者の関係に大きな亀裂が入った。

末次代表も鈴木氏も、自分の問題として領土問題を考え、それ
ぞれの信念に基づいて領土問題を前進させようとし、これまで
長期に渡って自らの時間とエネルギーを使って努力して来た人
であり、こういう形で両者が対立してしまったことは、日ロ関
係にとっての不幸であった。

秘録314-316頁
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東郷 世論の動きと、交渉の進展との間に、非常に大きな落差
を感じていました。私は落差を埋めなくてはいけないと思いま
した。それで、この本のなかでは2箇所、ほんの触りしか書い
てないですけれども、国内に向かって一生懸命、情報発信する
わけです。


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実際、国内は極めて難しい状況になっていた。交渉が、「二島
返還」ないしは「二島先行返還」に流れ、このまま進めると、
「四島返還」ないしは「四島一括返還」の道を閉ざすことにな
る、そういう危険な動きをしているのが鈴木宗男衆議院議員で
あり、その圧力に屈している軟弱官僚が東郷だというラインの
報道が、このころから随所に現れ始めた。

それに対置して、省内には「四島一括」を堅持する筋のとおっ
た外交官のグループもおり、省内が「軟弱派」と「正義派」に
割れているという趣旨の報道も増え始めた。

交渉というものの性質上、言えないことは言えなかったが、大
きな流れがどこに向かっているかはプレスとプレスを通じて国
民になんとしてでも伝えなければならなかった。

局長は、週一回外務省担当の霞クラブの記者と懇談することが
定例化している。私は、この秋、ほとんどの時間を使い、自分
の及ぶ限りの知恵をだして、交渉の状況を説明しようと試みた
。局長室の絨毯に三つの輪を描いて、一九九一年、九三年、二
〇〇〇年と、五六年宣言の確認が一歩、一歩、強まってきたと
いう説明をしたこともあった。

後に「あの時から、みんな局長の気合いを感じるようになりま
したよ」と言ってくれる記者もいたが、全体として、毎週局長
室を満員にしていた当時の霞クラブの記者達が私の話をどうう
けとめていたかは、定かではなかった。

外務省には、論説懇といって、各紙の論説委員に対して、大き
な外交イベントがある時に解説をする制度がある。とくに行事
はなかったが、十二月二十一日、私は自ら求めて論説懇を開き
、交渉の状況を説明した。

しかし、この時の各委員は、私が「二島」ないし「二島先行」
という“危険な政策”を進めていると、先入観を抱いていたの
ではないかと思う。この日の会合が醸し出す雰囲気は、まさに
「針のむしろ」であった。それでも、必要なことは説明してお
かなければならなかった。

その他、ロシア関係の学会、国会議員の種々の勉強会、地方自
治体関係の研修会、プレスとの内輪の懇談会、外務省の先輩の
会合など、求められるものには総て、あるいはこちらから求め
て出席し、基本的には同じ説明をくりかえした。匿名による主
要紙への投稿も行った。

秘録334-335頁
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東郷 特に、重要だったのは、安保研の方々との対話です。


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私も七〇年代の初めから、末次先生には多くのことを教えられ
てきたが、残念なことに、私が欧亜局長に就任した頃から、交
渉の進め方に関する私と先生との見解に乖離が生じ始めた。具
体的には、「歯舞・色丹の引き渡し」と「国後・択捉について
の討議」という二本の柱を日ロ交渉の軸とするべきだとする私
の考えは、「四島返還」の実現を遠ざけるというのが、末次先
生のご意見だった。

「東郷は、二島で手を打とうとしている」、「東郷の言う二島
先行では結局は四島を失う」「東郷は政治家の圧力に屈する信
念の無い外交官だ」──、当時そんな論調の記事がマスコミの
中に見られるようになったが、これらの批判の背後に末次先生
が存在していたという見方もされた。

こうした事態を受けて私は、これまで長年日ロ関係の人脈形成
に尽力してこられた末次先生麾下の安保研のメンバーに対して
は、日ロ交渉の正確な状況を説明しなければと考えるようにな
った。

特にイルクーツク会談の前後には、安保研の一人一人のメンバ
ーと個別の会合をもち、その回数は、三十回ほどになったと記
憶している。私の説明がすぐに共感を呼んだわけではなかった
が、それでも、〇一年五月二十四日には、末次先生は、私のオ
ランダ大使への内定を祝って、関係者多数を招いた歓送会を催
してくださった。

秘録46頁
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東郷 全部、一対一でやりました。イルクーツク交渉の前に概
ね15人。イルクーツクの後に、ほぼ同じメンバーと15人。
朝食か昼食かをご一緒し、こちらから出せる資料は、全部渡し
て、現状はこうなっています、と説明した。当時の会談などは
、すべてメモをとってあります。

ところが、どうにもメッセージが通らないわけです。

──通らない?

東郷 これまでの私のコミュニケーションの経験から考えると
、誠意をもって説明をすれば、真意は伝えることができたと思
っていました。とくに、一対一の話し合いでは。

ところが、あの時だけは違っていた。

どこかおかしい、something wrongなんです。なにかこう、自
分が透明なビニール袋の中にいるような感じでした。

透明だから向こうの景色ははっきり見えている。しかし、いく
らこちらが言っても、ビニールの向こうにいる人に、声が通ら
ない。未だにそういう気配を感じるんですね。

──未だに、というのは、現在に至っても、ということですか。

東郷 そうです。

(つづく)
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