2009年03月27日

東郷和彦02/国内政治風景の変化

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hoc fonte derivana clades in patriam populumque fluxit.

この源より生じたる禍は祖国及び国民を襲えり。

ホラティウス
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──2000年の4月に、鈴木宗男さんが訪ロし、プーチン大
統領と会いますね。小渕さんが倒れた直後です。東郷さんは外
務省欧亜局長でした。あの前後で、何が起こっていたのか、そ
こからうかがいたいと思います。


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四月二日の夜、鈴木氏から、訪ロに同行することになっていた
私の自宅に電話があった。

「総理が倒れられた」

あまりのことに電話口で呆然と立ちつくした私に鈴木氏は、「
しかし、明日のモスクワ行きは総て予定通り」とだけ告げた。

翌三日朝、成田空港には、意外な事態に心配そうなパノフ大使
が見送りに来ていたが、大使に対しても鈴木氏は、「明日の大
統領との会見は予定通りでお願いしたい」と述べた。

機中の鈴木氏に「小渕総理は昏睡状態」という連絡が入った。

モスクワに到着し、その日の夜は丹波實大使他との打ち合わせ
があったが、「予定通り」と言っても明日の会談の対応がどう
なるのか、今一つはっきりしない不安の中で一夜が明けていっ
た。

翌四日、午前中は、鈴木氏が旧知のフリステンコ副首相とチュ
バイス元第一副首相と電話で会談、ついで、大使館での打ち合
わせ、昼食と時間は過ぎていった。このころには、日本からの
報道は、森喜朗自民党幹事長が次期総理となる流れが決まった
ことを一斉に伝え始めた。

昼頃、森幹事長から鈴木氏に電話が入った。私の理解ではここ
で、「新総理に選ばれた時には、森幹事長は四月末の連休冒頭
にロシアを訪問したい」という意向が明確に鈴木氏に伝えられ
たと思う。

午後三時、予定通り、クレムリンでプーチン大統領との会談が
始まった。場所は一年半前に、エリツィン大統領と小渕総理と
の会談が行われたのと同じ部屋だった。

鈴木特使は、まず小渕総理が四月一日、与党との話し合いの後
に森幹事長に対して日ロ関係への熱い想いについて語り、これ
が元気な時の最後のメッセージになったことを説明した。

ついで、翌日の四月五日にも森自民党幹事長が国会で総理に選
出される予定であり、森次期総理としては、四月二十八日、二
十九日、三十日の連休冒頭に最初の外遊先としてロシアを訪れ
、モスクワ以外の場で非公式会談を行いたいとの意向であるこ
とを述べた上で、新総理としての最初の訪問国がロシアとなる
ことの意義を説明した。

さらに、森次期総理の御尊父の茂喜氏は永く石川県根上(ねあ
がり)町の町長を務めていたが、イルクーツク州シェレホフ市
との間の姉妹都市関係の強化に努力し、没後の意志によってそ
の遺骨がシェレホフ市に分骨されていることを紹介。最後に、
「本日ここに小渕総理がいるように感ずる」と述べて、涙を流
しながら小渕総理からの最後の親書を手渡した。

鈴木特使の涙ながらの発言に、プーチン大統領は明らかに感銘
を受け、「そういうお話であれば、四月末に入っていた日程を
調整して次期総理をお待ちする。これは自分の方からの招待と
して受け止めていただきたい。また、沖縄サミットの後の自分
の公式の日本訪問は、サミットの際にそのまま残っても良いし
、一度帰国してから秋にでももう一回出直しても良い」と述べ
た。

秘録296-297頁
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東郷 当時の“日本の政治の風景”を私なりに回想してみます
と、プーチン大統領と会ったときの鈴木宗男衆議院議員の政治
上の資格は、「総理特使」ですね。総理特使というかたちで、
日露の政治交渉の、最も光の当たる表舞台に出られたわけです。

それまでは、鈴木議員については、「日露のことを、一生懸命
やっている人だけれども、裏で汗をかいてます」というイメー
ジだったわけです。

裏で頑張っている分には、鈴木議員に対してどのような評価を
もつにせよ、かりに鈴木議員に否定的な見解をもたれる方でも
、そう目くじらを立てることはない。ところが、表に立った途
端、「鈴木議員にそこまでやらせていいのか」と、国内政治の
風景が変わりました。

そこから、政局を巻き込み、マスコミが主導し、2002年に
至った。ちょうど2年かかりました。その2年間の真ん中に、
「イルクーツク交渉」が入っているわけです。

こうした政治の風景は、もちろん当時はわかりません。でも、
なんとなく、鈴木議員の周りが、きなくさくなっていくわけで
す。

──それ以降の動きは、マスメディアを通じて、多くの人が覚
えているところだと思います。東郷さんご自身が「空気が変わ
ってきたぞ」と感じたり、意識された時を覚えていますか。

東郷 鈴木宗男議員が総理特使になった時、あのとき私たちは
、根回しをしたわけです。とても一人ではまわりきれないから
、外務省の欧亜局としては、局長、審議官、課長の3人で。そ
のときの、相手の反応ですね。

──え、鈴木議員が特使になる、というところで既に。

東郷 そうです。しかも根回しの段階では、まだ小渕総理が倒
れられる前ですから。小渕総理の特使としてクレムリンに行っ
て、プーチン大統領と会って、小渕総理の訪ロの相談をします
、という根回しです。

この際の受けが悪かった。こちらとしては、「え、なぜこんな
に受けが悪いのか」という感じだった。

今まで裏方だと思っていた人が、そこまで表に出ていくのか、
という空気です。今から思えば、あの時が潮の変わり目という
か、この問題についての日本の政治の風景が変わっていった出
発点ではないでしょうか。

──この間の出来事、心象を、どこかのメディアでお話された
ことはありますか。

東郷 いや、メディアに話せることは、みんなここ(『北方領
土交渉秘録』)に書いたつもりなんです。もちろん、しかし書
いていないことは相当あるわけだけれども、それは語るまい、
と。

あと何十年かして、今でこそ語る、ということはあるかも知れ
ませんけれども。

──当時の心象風景については、どこにも書いておられません
。何か語りうることがあれば、うかがいたいのですが。

東郷 小出しには語るまいと思っているんです(笑)。要する
に、鈴木特使の訪ロあたりから、国内政局的にはおかしくなっ
ていくんですが、しかし日ロの平和条約交渉は、まさにその辺
りから動き始めた。

そして、2000年9月のプーチン大統領訪日の時に、「これ
は、場合によっては交渉が大きく動くかも知れない」と思った
。「56年宣言」について、向こうが言い出した時です。

──「イルクーツクへの7ヵ月間交渉」ですね。

東郷 この本(『秘録』)の12章、13章にあたります。こ
の本に、他の人には書けない部分があるとすれば、この2つの
章だと思います。


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(二〇〇〇年)九月四日午前の首脳会談で、プーチン大統領か
ら、「一九五六年宣言は有効であると考える」との発言がなさ
れ、さらにそれに続けて、この場所でソ連時代のある人物が五
六年宣言の有効性を否定したことを知っているが、自分はそん
なことは言わない、ただし、この問題を過度に強調することな
く静かに扱い、専門家間で話し合いをさせたい、という趣旨が
述べられたのである。

ただし、四日夜の共同声明の交渉では、ロシア側は、共同声明
に五六年宣言を書くことは受け入れられないと述べた。口頭で
言うことと文書で書くことの間には、ロシアの立場からすれば
一定の差があり、ロシアとして今回は書く用意は無いという説
明だった。(中略)

「五六年宣言を是認する」という発言自体が予想を越えるロシ
ア側の歩み寄りであり、先方の譲歩につけ込んでさらに譲歩を
強要するのは外交的に拙劣なやり方であるのみならず、そもそ
も、ロシアが書かないと言っているものを無理に書かせること
はまったく不可能だった。

日本側内部の議論では、大統領が口頭で発言した以上、文書で
も書かせなければ世論がもたない、五六年宣言の明記のない共
同声明は発出しない方が良い、さらには、五六年宣言を書かな
いなら東京宣言まで書かない方がよいという極論まで飛び出し
た。しかし、衆知を絞れば自ずと結論は収まるべきところに納
まり、東京宣言は明記するが五六年宣言は記載しない文書が合
意された。


秘録321-322頁
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東郷 7ヵ月間交渉が始まって、12月ごろですが、ほんとう
に動き始めるかも知れない、という状況になった。しかし、そ
れに反比例して、国内の論調はおかしくなっていくわけです。

(つづく)

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