----------------------------
メルト 溶けてしまいそう
好きだなんて
絶対にいえない…
だけど メルト
目も合わせられない
……
お願い 時間をとめて
泣きそうなの
でも嬉しくて
死んでしまうわ!
「メルト」作詞・作曲:ryo 唄:初音ミク
----------------------------
◆今号のポイント◆-------------------
さかのぼれば、原発作業員を巡る報道の歴史もまた、「飽きて
いく」という主題の、少しスパンの長い変奏曲に過ぎない。違
う主題の下で、幾つもの変奏曲をつくる必要がある。
----------------------------
▼『原発のある風景』は、一言でいうと、好みの本だ。各章の
題名といい、引用といい、文体といい、まなざしといい、対象
との距離感といい、権力の懐に斬り込んでいく言論の、一つの
範型だと感じる。
▼目次を紹介しておこう。上下巻の上は第一章「ジプシーの素
顔」、第二章「スクープ--敦賀原発事故隠し」、第三章「イ
レズミをした原発」、第四章「一冊の犯科帳」。
さらに下巻は第五章「神隠しの池」、第六章「誰がために鐘は
」、第七章「若狭路の春--病める町政」、第八章「原発のワ
レサ」、第九章「関西広域原発極秘計画--峠の向こうに」。
1983年=昭和58年刊の本書は、原発推進という国策の内
実を、読めばそのまま理解できるように描いている。
いくら正しい記述でも、断片的な羅列ばかりでアタマに入りに
くい本が多いが、『原発のある風景』は、全体像を、浩瀚にな
らず、適正な分量で--たとえば通勤や家事の合間に、1日平
均30分かけたとして、1冊を1週間ほどで読めるくらいの分
量で--まとめあげた良書だ。
▼『原発ジプシー』と『原発のある風景』を読んだ眼で見つめ
れば、ついさっき、あたかも初めて気づいたかのように、原発
作業員の大量の被曝を取り上げているマスメディアは、深刻ヅ
ラしている知識人、コメンテーターたちの姿は、殆(ほとん)
ど道化にしかみえない。
「あんたら正気か?」と、ひとりずつ肩を叩きたくなる。
一部の例外をのぞいて、彼らが騒げば騒ぐほど、隠されていく
事実がある。「ずっと昔からそうだった」という事実だ。
▼急いで付け加えよう。先の二冊と並んで触れなければならな
い先人の仕事は、樋口健二が撮った写真だ。代表作の『闇に消
される原発被爆者』は、八月書館から復刊されるそうだが、今
一番入手しやすい彼の著作は岩波ジュニア新書の『これが原発
だ』。
これまでに挙げたどれを読んでみても、マスメディアの限界が
明らかになるだろう。優れたルポルタージュを前に限界が明ら
かになるのは、むろんマスメディアだけではない。
かつて大阪万博を迎える前、原発建設の現場で唱えられたスロ
ーガンは「万博に原子の火を」だった。力強いスローガンだ。
原発=国策なのだから、これに反対する人々は、市民社会を脅
かす危険な反国家主義思想の持ち主と相成る。
さらに、常に少数派である反国家主義思想の持ち主たちの間で
、目も当てられない内部抗争が起こされる。その歴史は、当事
者たちは当然、語りたくないから、消えていく。そして「分断
して統治する」側の経験と知恵は蓄積されていっただろう。
▼さて、『闇に消された原発被曝者』は1981年刊(三一書
房)。先の2冊の刊行年は1979年と1983年。すべて昭
和50年代の作品だ(著者の年齢も並べてみよう。樋口健二は
1937年=昭和12年生。堀江邦夫は1948年=昭和23
年生。柴野徹夫は1937年生)。
▼なぜ原発作業員のルポが減ったのか。昭和50年代までと昭
和60年代以降とで、何が変わったのか。幾つか考えられる。
三人ほど、ライターや編集者の友人と話したが、まず大きな理
由は「電力会社側が変わった」点だろう。
前々号の冒頭で引用したように、『原発ジプシー』は減ってい
るようだ。それは電力会社側の、もしくは下請け側の“ケア”
が改善されたからかもしれない。
また、労働組合の弱体化も、原発作業員の様子がわからなくな
った要因の一つだろう。雇う側、雇われる側の、両方の変容が
、「取材者が内部に入り込めない」仕組みをつくったのかもし
れない。
しかし結局、被曝の被害者が減ったのか、じつは増えているの
か、肝腎なところはよくわからない。今、作業員の被爆量が基
準を超えたと報道が騒いでいるが、それを目にするたび、実に
申し訳ない感情とともに、非常にそらぞらしい感情で胸がいっ
ぱいになる。
現在ただいま、報道に携わっている人は、もしかしたら、『原
発ジプシー』や『原発のある風景』などの先行業績を読んでい
ないのではないか。下手をしたら、そもそもその存在自体を知
らないのかな?
▼もう一つ、考えうる理由は、「長文のルポを発表する場が少
なくなった」ことだ。つまり、商売にならない。これは原発作
業員の問題に限らず、あらゆる社会問題に通じる現象だ。売れ
ない商品は生産を減らす。資本主義の決まりだ。
すると必然的に、ルポのあらゆる「技術」が受け継がれなくな
る。じつはジャーナリズムの世界=業界そのものが、そういう
悪循環にすでに陥っていて、原発作業員の問題など、ほんの一
端に過ぎないのかもしれないが。
▼さらにもう一つ、【さかのぼる】観点から見過ごせないこと
を書いておきたい。それは「最も激しく原発を建設した時代に
、最も激しく原発の問題点を指摘する言論が発表されていた」
事実だ。つまり逆に、建設が下火になると、糾弾の論陣も下火
になった、という、単純な比例関係だったのではないか。
アフガンの「空爆」もパキスタンの「自殺爆弾」も、続けば続
くほどニュース価値が小さくなっていく経緯を、つい先頃まで
、ぼくたちは嫌というほど実見してきた。原発作業員を巡る報
道の歴史も、「飽きる」という主題の、少しスパンの長い変奏
曲に過ぎない。
予測不能の恋で溶けた心も、誰でも検証できる冷厳な法則に導
かれるままに溶け落ちた燃料棒も、二度と元には戻らない。
お願い。時をとめて。その声はどこにも届かない。だからぼく
は、原発作業員の問題を、「飽きる」という主題の支配下に起
き続けるつもりはない。
違う主題の下で、幾つもの変奏曲をつくり、演奏しなければな
らない。
(つづく)