2009年04月15日

東郷和彦08/戦い方のパターン


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pareo,non servio.

私は従う、屈服はせず。
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──北方領土問題について、こう書かれていますね。

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北方領土問題は、日本が太平洋戦争をいかにして戦い、いかに
して敗戦をむかえたかという歴史に直結する、民族の心の痛み
の問題である。具体的には、一九四五年の春から秋にかけて日
本とソ連の間でおきた様々な不幸な出来事に、そのすべての根
源を有する。

秘録384頁
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東郷 はい。結局、対ロシアの交渉に従事する外務省職員の最
大の使命は、北方領土返還であるわけです。

外務省の中で、組織として、その課題を継続的に背負わされて
きたのが、ロシア語研修者、いわゆる「ロシアンサービス」と
いうことになる。これは、他の部署にないプレッシャーでした。

領土を取り返すというのは、兵をもって取り返すことは禁じら
れているわけです。その状況下で、つまり、憲法九条下で取り
返す、という国民的課題を背負わされている。武力を背景にす
ることなく、交渉力のみによって、とりかえさねばならない。

本来「血」をもって取り返そうというものを、「汗」をもって
取り返そうというのだから、そういう交渉にあたるものとして
の、それなりの決意と覚悟はいるだろう。それがロシアンサー
ビスの宿命だ、と。

そういうことは、いちいち説明しなくても、ロシアンサービス
の幹部になってくる者なら解っているだろう、と思っていまし
た。そこで、交渉が正念場と思った時、期待する仕事の負荷が
大きくなっていった。そして対ロ交渉が、本当の重みがかかっ
てきた時に、責任のある人たちが、期待していたことをしなか
った時に、私は激しく怒ったことがあります。

今から思えば、やっぱりその人たちも、ふつうの問題意識をも
った外交官だったのだと思います。そういう人たちに、通常以
上の負荷がかかるということについての、思いやりが足りなか
った。不徳のいたすところです。ふつうの問題意識を持ったふ
つうの官僚として、接することはできなかったかと、思います
。ロシア関係でない場所で、彼らとつきあっていたならば、こ
んなことにはならなかったかも知れないとも思いますね。

激しく怒ったことは、34年間の外務省での人生で振り返って
みれば、本当に僅かの期間だったけれど、その時に、私が「無
神経、インセンシティブ」だったというのであれば、それは、
そうだったと思います。私の、人間的限界でした。

──さっき言われた、“パイ”を大きくするというのは、具体
的にはどういうことですか。

東郷 いい仕事をして、さらに守備範囲を広げるということで
す。積み残す、ということの全く逆ですね。

仕事は、解決すれば次に解決すべきものが必ず出て来る。自分
のもらった問題を、できるだけたくさん解決して、その分だけ
、新しい仕事を作り出す。

しかしそれは自分の代で何でも解決しようというのとは、まっ
たく違います。自分のもっているポストに伴う仕事──仕事は
ポストについていますから──そのポストについている仕事の
量と質を、よりよいものにして後任者に託す、ということです。

北方領土の場合は、特に責任あるポストについた時の、全体状
況がある。動く時も、そうでない時もある。しかし、「待った
なし」で、もしも領土が動きそうな時に、責任ある担当者が、
なすべきことをしなかったら、それは、もらったパイに照らし
て、許せない、という気持ちがありました。

「許せない」と思ったのは、たぶん、あの時だけです。

──7年前の3月の時点で、「黙って去る」以外の戦い方は、
なかったですか。

東郷 当時の私の力量といいますか、私の見えていた世界から
すると、あれしかなかった。

当時を思い返してみれば、もうちょっと私の力が強いか、別の
視点があれば、もちろん別の戦い方はありえますよね。けれど
、人間それぞれ、限界がありますから。自分としては、あれ以
上の戦い方はできなかったと、思います。

──理不尽な迫害でした。

東郷 「組織に裏切られた」というのは、危険な単純化ですが
、その時は、そう思ったわけですね。では、どう戦うか。幾つ
かのパターンがあると思います。

一つは、徹底的にやられて、壊滅する。たとえば、自殺する。
それも、ありうる。自殺者は、この社会にたくさんおられるわ
けです。

二つめに、これは日本人にはあまりいないけれども、とにかく
最後まで戦う。あらゆることを公にして、マスコミを使って、
ものを書いて、知人友人の手助けを得て、最後まで戦う。

三つめは、組織の決定を、そのまま受け容れる。

私は、どれともちょっと違いました。

──そうですね。

東郷 まず、「このままでやられてたまるものか」と思って、
自殺は考えたこともなかった。それから、「私が悪うございま
した」と口が裂けても言えるか、とも、思った。

しかし、日本に残って、訴訟を起こして、自分は絶対に辞めな
いと頑張る──それもしなかった。

もし、組織がそう決めたのだったら、自分は黙って去る。しか
し、辞表は絶対に書かない。

──うーん、お祖父様と似てらっしゃる。

東郷 自分なりのスジをつけたうえで、しかし、今回は黙って
去る、と。かなり負けているけれども、しかし完全に負けたわ
けでもなくて、自分としては、外国でもう一回物事を見直す、
そのために、日本を出る、というところまでは、考えていたわ
けです。

── 一種、独特の戦い方をしたわけですね。

東郷 その時の私の置かれていた条件がありました。一つは、
オランダからぜひ戻ってきてくださいというお話が、既にあり
ました。これは、大変にありがたい話でした。

日本で戦うといったって、収入はゼロ。社会的なポジションも
なかった。オランダは、とにかく1年間のポジションを用意し
はじめていたわけです。そういう場所の有無は、大きな違いで
した。

そこで、オランダに去ろうと決めました。ただし、頭を下げて
たまるものか、と。だから、絶対に辞表を書かなかった。

──こらえてくれ、という言葉、「人間味のある態度」(秘録
31頁)があれば、少しは違った、というくだりもありました
ね。

東郷 そういう人がいてもいなくても、私のとった出処進退は
同じだったと思います。しかし、心理的に、まったく違ったと
、思います。

──個人的に味方してくれた人は、佐藤さんはもちろんですが
、元アイルランド大使の鏡武さんの名前も出てきます。

東郷 鏡氏は、常に私の相談相手になってくれていました。本
当に、有り難かった。個人的には、外務省の内外で、暖かく接
してくださった方はいました。

──しかし、公的には、無かった。

東郷 無かった。個人的な支えは、本当に、有り難かったです
。ただ、ここでお話ししている「こらえてくれ」という話は、
組織としての外務省の発言についてです。

幾つかの戦い方のパターン、というようなお話を申し上げまし
たが、孤独な状況に叩き落とされた、本当の危機の時に、どう
戦うかは、人それぞれであり、周りには容易にうかがい知れな
い事がたくさんあると思います。

周りの人が、安易に「こうすべきだ」「ああすべきだ」という
ことは、なかなか、言いにくいのではないでしょうか。昨今の
いろいろな報道をみるにつけ、自戒をこめて、そう思います。

(第1章終わり。第2章「職業としての外交」につづく)

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