2009年03月26日

東郷和彦01/透明なビニールの中で


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mitte superba pati fastidia,spemque caducam despice;
vive tibi,nam moriere tibi.

〔主人の〕傲慢なる軽侮を忍ぶことをやめよ、
而して滅びやすき希望を軽んぜよ、
汝のために生きよ、何となれば汝は
汝のために死すべきが故に。

セネカ
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【編集前記】

歴史について語るとき、「私たちのメモリー」を訴え、人々の
メモリーに働きかけようとする人は多い。一方、様々な「ロジ
ック」を重ね、自らの正当性を言い募る人も多い。

しかし、現在の日本社会の「内側」で盛んな、これらの両極端
を制し、「外側」にも通用しうる、

「メモリーの息づいたロジック」

をつくりあげようとする人は、残念ながら稀だ。

本稿は、1945年に生まれた一人の元外務官僚へのインタビ
ューである。同時に、1945年から/1945年へ向けて、
この社会で、「メモリーの息づいたロジック」がどのようにし
てつくられようとして、どうやって壊されたのか、また、「公
共性」を巡る何が変わり、何が変わらなかったのかを辿る試み
でもある。


【第1章 “透明なビニール”の中で】

▼首相の靖国神社参拝。従軍慰安婦。日韓関係。中国と台湾と
日本の関係。東京裁判の是非。アメリカの原爆投下……議論百
出の難題ばかりを取り上げて、それぞれの現実的な解決策を模
索した『歴史と外交──靖国・アジア・東京裁判』(講談社現
代新書)という本が、2008年末に出た。

この本を書いた、東郷和彦という人の話を、紹介したい。

『歴史と外交』の特長は何処にあるのか。この本は「歴史認識
」問題の専門書ではないし、近代史の学術書でもない。外交の
理論書でもなければ、個人的な回想録の類でもない。

『歴史と外交』は、それらの要素をふんだんに取り入れながら
、外交の現実に資するために編まれた「献策の書」であり、現
状に対する「諫暁の書」である。

▼東郷さんはこの本の中で、外務省の条約局長や欧亜局長を務
めた人ならではの、意志と能力を注ぎ込んでいる。どれをとっ
てもうんざりしてしまう「歴史認識」問題の峰々を前にして、
ときに針の穴を通すような突破口を見つけようとしている。

読者には、この著者が、自分の手に取り上げた問題群を、本気
で解決しようとしていること、そして「本気で解決しようとす
るなら、現在の情勢下で、この方策しかないのではないか」と
いう一種の緊張が、伝わってくるだろう。

一言でいえば、「あまり類書が見当たらない」のがこの本の特
長かも知れない。しかも、一読すればわかるように、下手をす
れば「右」からも、「左」からも叩かれかねない、危ない本だ。

▼何故、東郷さんはこの本を書こうとしたのか。

しかし、その話題を聞く前に、2002年の外務省で起きた出
来事の回想から、始めようと思う。

日付は、ちょうど7年前のきょうに遡る。


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(二〇〇二年の)三月二十六日夕刻、外務省からの最後の事情
聴取が短時間行われた。担当の官房幹部は前回の最後に、部下
に対する対応について「よく整理をしておいてください」と言
ったにもかかわらず、まったくその件には触れずに、若干のや
りとりの後、こう述べた。

「東郷さん、あなたの本省時代の行動について省内で批判がで
ています。出処進退を考えるべきではありませんか」

「今あなたが言っていることが、辞表を書けということであれ
ば、自分には辞表を書く理由はありません」

しばらく考えた後に、私は、そう答えた。

担当者の顔が、瞬時に暗くなった。

私は、対ロシア外交に対する信念、鈴木氏(=鈴木宗男衆議院
議員)との関係についての所感、部下が傷ついたということは
上司としてひじょうに残念ではあるが、そのことによって辞表
を書くべき理由はないことをもう一回簡潔に述べた。

「従って私は、辞表は書きません」

担当者は無言だった。しばらくの沈黙の後、私はこう付け加え
た。

「ただし、外務省において、なんらかの理由によって、『貴方
に与える仕事がない』という判断をするのであれば、私は、そ
の判断には黙って従います」

そう述べた上で、私はその場に持ち合わせていた西郷隆盛の『
南洲翁遺訓』や幕末の儒学者、佐藤一斎の『言志四録』から西
郷が自ら撰んで座右の誡めとしていた『手抄言志録』からの一
節を示した。当時私は、友人が贈ってくれたこの一節を、朝な
夕なに眺めては、一日一日を過ごしていたのである。

〈およそ事をなすには、須(すべから)く天につかうるの心有
るを要すべし。……天を相手にして己をつくして人を咎めず、
我が誠の足らざるを尋ぬるべし〉

担当者が私の気持ちをどう受け止めたかは、知るすべもない。
しかし、数秒の沈黙の後、彼はこう言った。

「なるほど。東郷さんは、切腹ではなくて、打ち首を望んでお
られるのですね」

この言葉を聞いたときに、私の中で何かが壊れ始めた。

私が示した『言志録』のコピーをとるために、担当者が足取り
も軽く部屋を出ていく姿が見えた。

東郷和彦『北方領土交渉秘録 失われた五度の機会』30頁
新潮社、2007年5月25日発行
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▼ゴルバチョフ時代に2回、エリツィン時代に2回、そしてプ
ーチン時代に1回。北方領土交渉の解決につながる「機会の窓
」は合計5回、開き、閉じた。『北方領土交渉秘録』は、その
5回の詳細を交渉当事者の視点から綴った、まさに秘録である。

いわゆる「鈴木宗男バッシング」の渦中で、当時オランダ大使
だった東郷さんは、外務省を「免官」になる。「依願免官」(
=「切腹」)ではなく、「免官」(=「打ち首」)である。

鈴木宗男、佐藤優両氏の身の上に起こった出来事は、比較的よ
く知られている。しかし、鈴木・東郷・佐藤の三人のうち、日
露交渉をめぐる国家意思を決定する、いわば「最強の黒子」と
して戦い続けた東郷さんのことは、先の二人に比べて、よく知
られていない。当然、出せない話も多い。しかし、出せる範囲
の表層部分を、再度俯瞰することによって、確かめられること
もある。


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要するに、誰か犠牲になる人間が必要なのだろう。それによっ
て、外務省が鈴木氏(=鈴木宗男議員)と決別したことをハッ
キリさせるというのが、省幹部の思惑なのだろう。こうしたや
り方に、政治もマスコミも圧倒的に同調しているようだった。

そして、標的は私になっていた。

言葉にならない絶望感が私をとらえていた。入省以来三十四年
間、国家と外交の力を強めるために誠心努力を尽くし、特に森
喜朗総理の下で進めた対ロシア外交により、日ロ関係を戦後、
最も良好な状態にまで押し上げたと自負していた。

にもかかわらず、今退官を求められるのであれば、一体この三
十四年間は何だったのか──。

私が標的にされた以上、もはやいかなる議論も私を守るまい。
今回の事情聴取にしても、省内の人間関係を問題にしながら、
私サイドの話を聞かないのだから、真剣な検証をする意図があ
るとは、到底思えなかった。

それでも、一人で外務省と世論を相手に戦うのか。そのような
判断をする組織を相手に、そこまでして戦う意味があるのか。
戦った結果、何を得られるというのだ。

おそらくは、今よりさらにボロボロになり、今よりもさらに打
ちのめされるに違いない。その時の私には、そんな数カ月後の
自分の姿が透けて見えるようであった。

いつしか私は、ある種の二律背反に陥っていた。外務省を辞め
なければならないのは実に不本意だったが、さりとて、そのよ
うな判断をする組織を相手に、さらに自分をボロボロにして戦
う気力が、どうしても湧いてこなかったのである。

とにかく、本件に対する自分の存分を明確に述べたうえで、黙
って外務省を去ろう。自分の考えは、いずれ明らかにされるこ
ともあるだろう。悶々としながら、私の気持ちは徐々にそうい
う方向に傾いていった。

秘録28-29頁
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翌三月二十七日、今回の事情聴取で私が述べた内容を文書で残
すために徹夜で書いた「陳述書:欧州局長在任時の日露関係及
び右に関連する諸事情」を外務省に届けた。

三月三十一日、オランダに帰任した。

帰任と同時に東京から、ある全国紙に私への事情聴取に関して
、「ぼく間違ってない」という見出しで一面トップの記事が掲
載されているという連絡があった。二月の事情聴取の際と同じ
ように、省内の特定の人たちがプレスを煽って、信用の失墜と
追い落としのためのリークを行ったのだろう。まったく恐ろし
い状況だった。

そして、四月二日、私の退官が正式に決まった。「対ロ外交を
推進する省内の体制に混乱をもたらし、外務省の信用を著しく
失墜させた」というのがその理由だった。

この退官理由は、私が事情聴取で述べたこととは明らかに相容
れないものだった。もちろん、私は自分の主張したことだけが
全面的に正しいと言っているわけではない。外務省の執行部の
立場もあるだろうが、退官させるにしても、もっと率直に心を
開いた対応ができなかったのかと思うのである。

例えば、当時の執行部が、「今起きている政治状況の中で、外
務省としては、誰かに身をひいてもらわねばならない。そうな
ると、やはり、君にひいて貰わざるを得ない。不本意だろうが
、省のためにこらえてくれ。しかし、省としてはあくまで通常
の勇退者としてこれからも処遇していきたい」といった人間味
のある態度をとって処遇していたならば、外務省に対する私の
感じ方も違ってきたと思う。

しかしながら、「黙って去ろう」という立場をとった私に対す
る一連の帰国手続きは、受刑者を追い立てるようであり、その
ことが外務省を深く愛する私の心を引き裂き、追い詰めること
となった。

そんな中で、大きな救いとなったのは、赴任地だったオランダ
における様々な関係者からの心のこもった温かい対応だった。
私が離任する可能性がプレスに流れて以降、オランダ各界のオ
ランダ人と日本人の方々から、外務大臣あてに、大使としての
活動を評価し、私を離任させないように望む嘆願書がたくさん
出ていた。

そのことは、私には何も知らされていなかったが、オランダ離
任の直前に分厚い封筒に入ったコピーをもらった。私にとって
は、涙なくしては読めないものばかりであった。

このころ、某全国紙一面に、「東郷大使は職権をもってオラン
ダから嘆願書をかかせていた」という記事が掲載され、善意で
動いてくれたオランダの友人たちの目にこの記事が触れないで
ほしいと思った悲しい記憶がある。(中略)

四月二十五日、帰朝。
翌四月二十六日、退官。

この日の夕方、都内のホテルの一室で「免官」という辞令を頂
戴した。

通常こういう時の辞令は「依願免官」、即ち「お願いして辞め
る」ことになるのだが、絶対に辞表を出さないという私の立場
を貫いた結果、「免官」という異例の形になった。

そして、それは、自分の志を後に伝えるためにこの時、私が示
し得た唯一の公の行動であった。

秘録31-34頁
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(つづく)


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